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東京高等裁判所 昭和40年(う)245号 判決 1965年10月27日

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

所論は、原判決は本件公訴事実に対し、被告人がクレーン車を運転して後退するに際し左側の情況を特に確認しなかつたことは通常人として当然の措置であり、被害者山口松太郎の存在を予測しなかつたことを過失とすることはできず、当時の情況においては自動車運転者として執るべき注意義務に欠けるところはなかつたと認め、被害者轢殺の結果を被告人の業務上の過失に因るものとする犯罪の証明がないとして、被告人に対し無罪の言渡しをしたのであるが、本件の場合被告人には後退する車輛の左側及び後方の安全をも十分確認すべき業務上の注意義務があり、これを怠つたことは被告人の過失であつて、そのために被害者の存在に気付かず車を接触せしめて同人を死に致したものであるから、原判決は業務上必要な注意の限界につき判断を誤り罪となるべき事実を誤認したものであると主張する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

原審の取調べた証拠によれば、被告人は起訴状記載の日時場所においてクレーン車を運転して時速約三キロの速度で後退し、十数メートル進行した地点において、山口松太郎(当八八年)に同車輛を接触させ、同人を左側後輪及び前輪をもつて轢圧しよつて同人を死亡するに至らしめたこと、右の如く後退を開始するに当り被告人は同車輛の運転台右側の外に立つて車輛の右側及び後方の情況を視たのみで左側については、バツクミラーを一瞥したに過ぎず、その情況を十分確認しなかつたことが明らかに認められる。よつて被告人の右の如き措置をもつて、本件の具体的情況の下において、クレーン車の運転者として業務上要求される注意義務の履践に欠けるところがなかつたか否かを検討するに、本件工事現場の模様は司法警察員作成の実況見分調書、原審証人北嶋まさ、同茂垣左門当審証人坂本義雄の各証言によれば、周囲に板塀、木柵、張り綱等を廻らし工事場の区域を区画し、西側歩道との境界には高さ約〇、七五メートルの木柵が設けられ、立入禁止の標示板が四、二メートル間隔に取り着けられており、工事関係の車或いは附近商店のため物品運搬等の車が出入りする便宜のために木柵の切れている部分は張り綱、保安柵等により、必要時の外は、人車の出入を遮断してあり、一応は一般歩行者等が濫りに工事現場に立入ることを防護する施設が整つていたことが認められる。しかし右木柵や張り綱の部分は、人の立入ることを物理的に不能または困難ならしめるものではなく、立入禁止の標示を無視して乗り越え、またはくぐり抜けて工事現場内に立入ることは比較的容易な情況であり、前示各証言によれば、附近の住民で工事現場を横断して道路向側に渡る者が往々にしてあり、北嶋まさの司法警察員に対する供述調書によれば、本件被害者が屡屡北嶋方前から工事現場内を横断する姿を見かけ、日頃から危険を感じていたという実状であつたことが窺はれ、そのような実状は被告人も諒知していたと認められる。即ち本件事故現場の具体的情況は保安設備の施されていることに専ら頼つて、立入る者の存在を全く考慮外に置き得る実状ではなかつたのみならず、工事関係者がその区域内を往来することは当然予想しなければならないのであるから、苟くも人身の安全確保のために万全を尽すべき当然の責務を負う車輛の運転者としては、後退運転を開始するに当つては車輛の周辺の情況を十分に見届け安全を確認した上、不断の注意を用いつつ、でき得れば補助者の誘導を求める等万全を期して運転を継続すべき業務上の注意義務があるといわなければならない。本件の如く運転車輛が車長八、一一メートル、車高二、一〇メートル、車巾二、四九メートルの巨大な車体を有する場合、従つて車輛の一方の側に立つただけでは視界を遮られる部面が多く反対側の情況を見届けることの不能な場合においては猶更である。原判決が、被告人が後退に際し左側の情況を特に確認しなかつたことも通常人として当然の措置であつて、右側の情況を確認した以上、自動車運転者としての注意義務に欠けるところはなかつたと判断したことは所論のとおり失当というべきである。原判決は右の如く判断した理由の一として車輛の傍に人夫二人が立つていたのであるから、危険な事態を発見すれば警告するであろうことを挙げているが、被告人の自供によつても人夫等が立つていたのは車輛の右側と認められ車輛の左側を視得ないことは被告人自身と同様であり、特に同人等に左側の情況確認方を依頼したのでもないのであるから、その警告に期待したことによつて被告人自身左側の安全確認の義務を免れるものではない。右判断に基き、被告人が被害者の存在に気付かず、同人に車輛を接触せしめて轢殺するに至つたことは被告人の過失に基因するものとは断じ難いとした原判決は事実を誤認したものといわなければならない。そしてその誤認が判決に影響を及ぼすことの明らかなことは言うを俟たない。所論は理由があり、原判決は破棄を免れない。(その余の判決理由は省略する)(三宅富士郎 石田一郎 寺内冬樹)

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